おれはもうおなかすいた(@ADHD、薬剤師)
LOVE YOU ONLY。盛り上がってますね。君が好きだと叫ぶ分にはよかったんでしょうが、キスがしたいよってのがまずかった…でもまぁ関係ない人たちから社会的リンチを受ける必要はないと思うんですがね。
さて、ツイッターに匿名の質問箱を設けてるんですが、先日こんな質問をいただいて。
問題提起ありがとうございます!
これは質問箱の回答では文字数制限があるので、ブログにしましょう!自分なりの意見を。 #peing #質問箱 https://t.co/i3u2Uixpqk pic.twitter.com/ZKB0SbiRQr
ブログで回答しますって言ったんで今日はこの話題を。
簡単に言えば、
1.社会の在り方で感じること
2.もっとこうあればいいなと思うこと
この回答を、ということですね。
OK!かしこまり!ということで、私見を述べさせていただきます。
発達障害に対する行政側の問題とは?
まず質問の冒頭にあった行政の問題について。
今までの科学的知見を無にする動きというのが、ぼくには見つけられませんでした。総理が会長を務める団体というのをリサーチしきれなかったのですが、是非こちらは教えていただけたらと思います。
ちなみに行政である、文科省は発達障害についてこう記しています。
これを見た感じ、医学的な知見と同様ですね。
どんな団体なのかわかりませんが、個人的にも興味があるので質問者さん!是非教えて欲しいです!
自己責任論について思うこと
発達障害の自己責任論については、学習障害、アスペルガー、ADHDなどそれぞれによって異なると思います。
ひとくくりにしてしまうのは、乱暴だなと思います。ADHDに関していえば、ぼくはある程度は肯定派のポジションです。
「ある程度」というのは、「少なくとも改善に向けての努力はしようよ」ということです。
ぼくは医療従事者なので、薬が対症療法であり根本療法ではないことを知っています。ストラテラを飲んだところで、ADHDは治らないんですね。
でも一般の方にとっては、ストラテラは魔法の薬で、これさえ飲んでればADHDも治ると思っている方もいるように思います。
これは単純に知らないだけだから、教えてあげる必要があると思います。
そうすると…
「なんだおまえ、そんなことも知らないのか」
という人もいますが、こういう知らないことをディスる文化がよくないと思いますね。
自己責任論を唱える人たちは、上からの物言いなんですよね。
ぼくはこのディスる文化と自己責任論は似ていると思います。知らないことをディスる、できないことをディスる、これが自己責任論ではないかと。
知らない人がいたら、「こうやるといいかもよ」。
できない人がいたら、「こうやるとできるようになるよ」。
自己責任だ!なんて言う前に、こういうマインドで教えてあげたらいいのになって思います。
で、ぼくの言う「少なくとも改善に向けての努力はしようよ」というのは……
ストラテラよりもADHDの諸症状を改善するための努力。たとえばメモをとるとか付箋を貼るとか、携帯のアラームを活用するとか……
そういう日々の暮らしのQOLをあげる工夫はしようよと思います。
自己責任論を唱える人たちは残念だと思いますが、QOLをあげる工夫をしないADHDの人たちも残念だと思います。
ADHDという疾患名を武器に何の努力もせずに文句をいうのは、同じマイノリティーとして残念です。
もちろんADHDと一口にいっても、他の疾患を併せ持っているなどは別です。たとえば鬱でありADHDであれば、努力をするという行為自体に難があることがあると思います。
そういう場合は、まずは鬱であるという状態を受け入れてあげて、鬱の治療をしてみようよと思いますね。人によって努力のステップは違うものです。
鬱でありADHDであるなら、ADHDのためのQOL改善の努力からするのでなく、ADHDはひとまずおいて、鬱改善のための努力のステップを踏むのがいいと思います。
おれはADHDと診断されてどう思うのか
自分の場合は、ADHDと診断されて気が楽になりました。
ご幼少の頃から、クセが強く悩んでいたことの理由がハッキリしたからです。でもぼくはADHDだからできなくて当然だとは思いません。
人よりもできないこと、改善しようと努力してもできないことはあります。仕事上のことであれば、自分より適した人がいるなら、その人に任せるのも解決策の一つだとぼくは思います。
現実世界では、ADHDの人にあったことがありません。でも一緒に仕事する上で、この人はADHDかなぁ?なんて人には出会います。
自分が失敗してきたことと同じようなミスをするんですね。
同僚の意見を聞くと、「そんなのは甘えだ!」と吐き捨てる人も当然います。でもぼくは自分がそうだったり、同じようなミスをしてしまったりするから、誰よりもその人をサポートすることができます。
この前も、よく寝坊したり、仕事中にパニックになったりする子が仕事に出てこなくなりました。
その子がADHDかどうかはわかりませんが、周りの甘やかすなという意見にぼくは一人反対しました。
そして、その子に直接会って話を聞いてあげることで、その子は職場に復帰できたんです。実際、ぼくが話したことがきっかけになったかどうかはわかりません。
でも少なくとも、誰も手を差し伸べなかったら職場にはもう二度と出てこなかったと思います。
会社にとっては人が一人来なくなったことは、どうってことないと思います。多くの職場でこういう人は見捨てられてしまうと思います。
でもADHDとして、悩んできたことがあるからこそできることがあるんじゃないかな?とぼくは思います。
まとめ
行政に対して、ADHDにもっとこうしてくれよという期待は、自分は特にありません。でも同じADHDの当事者の人たちに対しては、ADHDだからこそできることがあるんだという希望を持って欲しいなと思います。
そして社会の中でうまく立ち回っているADHDの人たちには、「本当にお前は努力したのかよ?」なんて言わずに!
「自分の場合はこうやったらうまくいったよ」
「こうしたら、きっとそのミスは減るよ」
こういう風な経験をシェアして欲しいなと思います。
社会の中でうまく立ち回る前にしてきた失敗は、自分一人の力で解決できたものばかりではないはずです。
時間が経つにつれて、こういう辛い過去に対する感謝は忘れてしまうものかもしれません。でも社会の中でうまく立ち回れているのは、誰かのサポートがあったからですよね。
できないのは自己責任だなんて突き放さず、自分の経験でよかったことをシェアして教えてあげればいい。
そしてシェアを受けたADHDの人はADHDを特別視せずに、工夫のステップを踏むといいですね。
ADHDの自己責任論は、唱える方にフォーカスされがちだけど、受け手の問題でもある。
ADHDだから仕方ないと思われたいのか、そうじゃないのか。この心の在り方が大事なんじゃないかな。
おれはもうねむい。