滝沢秀明副社長の電撃退任。ジャニーズはドミノ退社で、まるでぼくらの会社のよう。
世間はタッキーの退社、キンプリ3人の退所と、昨今の自分たちが所属する企業の退職模様を重ね合わせてみているようだ。
ドミノは倒すとパタパタと倒れていく。倒れゆくドミノサイドの人生を歩むのか、それとも冒険家サイドの人生を歩むのか。
相手の幸せを願い、なんの不満もないにもかかわらず離婚したぼくは、ドミノ倒しの倒れた一コマのような人生を歩んでいる。
なんでも相談できるがゆえに相談できない
ぼくが離婚をした理由は、前回の記事に書いた通りだ。
簡潔に要点をまとめるとこんな感じだ。
- 仲悪いことはなくむしろ仲良し
- 本音では離婚したくなかった
- セックスレスかつEDで子作りが難しい
- 相手の幸せを願い離婚
離婚時にぼくが相手に抱いていた感情はこんな感じだ。
- 最愛の人で人生最高のパートナー
- 家に帰るのが楽しみに思える人
- どんなにドン底に落ちてもなんとかできる相手
- 楽しいを創れる相手
離婚=不満
この方程式が一般的には成り立つが、ぼくの場合は不満など何もなかった。むしろ、ベストパートナーだと思っていた。
病めるときも健やかなるときも…まさにそんな相手だった。仲が良すぎたがゆえ、途中からセックスレスだったが、EDになる前もそこに愛情があったので、僕自身は気にしてなかった。
パートナーの生育歴は人とは違い特殊だった。それゆえ、「家族」という形に特別な想いがあるのではないか?と、ぼくは思っていた。
パートナーは、子どもは絶対欲しいだろうな、子どものいる家庭を築くのが夢だろうな…とわかっていたのに、考えなければいけない問題を相談できず先延ばしにしてしまった。
ADHD特有の先延ばし行為たるものかもしれない。
本来はEDも向き合って話すべきかつ話せる相手だったが…受け入れてくれるだろうがゆえに相手の夢を摘んでしまうと思った僕は、自分の心の中にグッと押し込んでしまった。
なんでも相談できる相手だったからこそ、だった。
爆笑問題の太田光氏は子どもが嫌いだと公言している。でもそれは妻を傷つけないためなのではないか?と、妻の光代氏は言っていた。
パートナーもぼくを受け入れてくれる。そう思っていた。
子どもがいない人生、2人なりの在り方を素直に相談すればいい。
ただそれだけだったのに、ぼくはドラマの世界を地で行き後悔することとなる。
セックスレスだけが理由の離婚は後悔する
いざ婚約して入籍したとき、自分のADHDの特性とパートナーの感覚のギャップを再認識する。
感覚の違い、一般的に当たり前なことをすんなり受け入れられないもどかしさ…これらのことを悲しく虚しく感じたが、本当はそんなことはどちらでもよかった。
しかし、衝動性のスイッチを発動する大なり小なりのトリガーポイントであったとは思う。そこに自分が気になっていた、たった一つのことが重なった。
「子ども」というパートナーの夢を、ぼくは叶えられない可能性が高いという現実。
大切な人の大切な夢を、自分が一緒にいたいという理由で奪ってしまっていいのだろうか。
パートナーの夢を自分が叶えてあげられない可能性が限りなく高いこと、それだけが気がかりだった。
EDとセックレスの問題は同列には語れないので、セックレスに焦点をあてる。
セックスレスで悩んでいる夫婦は多いということを、離婚を切り出しいろいろ考えているときに知った。多くの記事やネットの情報で、セックスレスを憂う女性が多いことも同時に知った。
人は自分が意識したものを無意識に集める、カラーバス効果が働いたのかもしれない。
この車、かっこいいなぁと思った日からなんだかその車ばかり見るな…ってやつだ。
そんなカラーバス効果により、セックスレスを憂う情報ばかり目についたのだが、問題なのは、「そこに愛があるのか?」だとぼくは思う。
おまえ
てめぇ
笑いながら、ニ人称をこう呼び合える関係性を築ける相手はそういるだろうか?
ぼくとパートナーの関係性のすべてはここに集約しているかもしれない。なんの違和感もなく、こう呼び合えた。
言葉に書くと汚く、ひどい言葉だが、「おまえ」と「てめぇ」の行間には2人にしかわからない物語がある。
物語の集大成として落とし込まれた言葉であり、ぼくもパートナーも2人にはこの言葉の意味がわかるはずだ。
よきパートナーと言いきれる相手など、そういないのではないだろうか。
セックスレスは女性側からすると、女性として見られてないという側面はあるかもしれないが、恋が愛に昇華したゆえのセックスレスであれば、セックスレスを理由に離婚すると、間違いなく後悔するとぼくは自分の経験から思う。
セックス = 愛
ではない。
好き ー セックス = 愛
なのだ。
ぼくは愛のある離婚により、倒れたドミノの1コマになった。
相手のためを想うキラキラはドラマの世界の話
「子ども」を起点に、相手のためを想い離婚したわけだが…
相手のためを想うなんてことは、ドラマや映画の世界の話だ。現実世界でそれを地でいくと、結果として残るのは「後悔」だ。
一時期は相手のためなんだ、と言い聞かせることはできるかもしれない。ぼくもそうだった。
でも時が経ち、ふとしたときではなく常に相手のためなんてキレイゴトを吐かずに、自我を通せばよかったと後悔する日々を送る。
こんな滑稽なことはない。
相手のためだけを想うと自分は必ず後悔する。相手のためを想うことで、自分が幸せになれる聖人などあまりいないのではないだろうか。
僕はこうと決めたら、変に突っ走ってしまうところがあって。これはADHD特性の部分だが、なんとしてもやり遂げようとする。
完遂する特性が対人間に発揮されると相手も自分も悲しませることになる。
パートナーは今、子どもが2人できて夢を叶えた。そういう意味では夢を叶えさせてあげられた。でもこれは結果論だ。
離婚までの過程でたくさん傷つけただろうし、矛盾しているが自分も傷ついた。離婚を切り出したけれど、離婚したいわけではない、というパラドックスな感情に何度も苦しめられた。
まるでアキレスと亀のように。
一見、正しそうなことをしているようでも、実際は正しくない。「この壁に張り紙をしてはならない」という張り紙のように。
相手のためを想い、相手を傷つけ、自分も傷つき、自分が後悔する。まさに自己言及のパラドックスだ。
人生の主役は常に自分で、そこに視聴者はいない。だからこそ、相手のためを想うだけではダメなんだと思う。
人生のパートナーはお守りのようなもの
子どもがいなくても、夫婦2人ですごく幸せ…最近はこんな情報ばかりぼくはよく目にするようになった。
これもカラーバス効果だ。
自分が本当に望んでいた欲望を実現できずに「想い」に閉じ込めて蓋をした虚しさや悲しさが、自分の大半を占めている。
パートナーが幸せなのは嬉しい。でも半分は悲しく半分は嬉しい。これが本音である。
別れても友達で、別れても人生のパートナーで…そう思うのは簡単だが、相手の家庭のことを考えると気軽に連絡したりはできない。
こんなことがあった、こんなことをした…今までなら報告してきた嬉しいことも伝えることに気がひける。
パートナーの甥っ子がたまに連絡をくれてすごく嬉しいが、ぼくから連絡をするのは必要以上に悩んでしまう。
ある日の1コマだが、ぼくは甥っ子が親友と言ってくれたのがすごく嬉しかった。歳の差は20以上もある。
彼の話は前の記事でも書いたが、自分と重なる部分がたくさんある。アタリマエをアタリマエとしないその感性は、彼の非常にいい部分だ。
連絡をくれるのはすごく嬉しいが、相手の家庭、相手の旦那さんのことを考えてしまう。
パートナーのことも、一時期はSNSで見てくれたら嬉しいなぁなんて思ってもいたが、人生のパートナーとは心のお守りであって、目の前にいるわけではない。
人生のパートナーは新たな人生を歩み、冒険家として進んでいる。一方で、自分は過去に留まっている。
両親にパートナーは元気にしているのか?と聞かれるたびに、なんともいえない虚無感がうまれる。
弟夫婦も子どもはいない。欲しいようだが、なかなかうまく授からないようだ。でも楽しそうだ。それでいいんだと思う。
倒れたドミノはそこから動かない。ぼくの人生の時間は完全に離婚を機に止まってしまった。
離婚をして得た力は最強にして最高に不幸である
正直なことを言えば、ぼくはもう生きていたくない。あれだけ健康に気を遣ってきたが、この数年は健康診断も受けていない。
生きることがどうでもよくなってしまったのだ。
こんなことを言うとネガティブ全開になってしまうので、ポジティブな話も挟んでおこう。
離婚を機に仕事面においては強くなった。最近、ハマっている「有楽町かきだ」の大将風に言えば、強い。誰に何を言われようと誰に嫌われようと、どうでもいいからだ。
あんなこと言われてなんとも思わないのか?どうしてそんなに悟りをひらいた仏のようになれるのか?人間ではなく、ロボットのようだ、とよく言われる。
正直、もうすべてのことがどうでもいいのだ。
店舗からは人がいなくて大変とよく言われるが、本当に人がいなくて大変なケースはほとんどない。
できないことをできるようにするのが仕事。その発想なしにただただ作業する。ただの作業を仕事と勘違いしている責任者がいる。
あなたが怠慢だから、チームが大変。ただこれだけだ。
そう思っても今までなら、なかなか伝えるまではできなかった。でも今は、思ったことを思ったとおりに今まで以上になんでもかまわず言うようになった。
もともとあまり顔色を伺ったりするタイプではなかったが、それに拍車がかかった。
相手が面倒で皆が腫れ物に触るような扱いをする人であっても、部長であっても…相手の顔色を伺うことはしない。
成田悠輔氏も言っていたが、ABどちらの側につくわけでもなく、かといって八方美人になるわけではなく、思ったことを言えると関係性は逆によくなるように思う。
マネージャーという会社における管理職のポジションにおいて、離婚を機に得た力は強い。
会社で仕事をするという面では、ストレスもなく幸せだ。でも仕事から離れたときはどうだろうか。
プライベートはまったく幸せでもなければ楽しくもない。
すしを握る、プログラミングを学ぶ。少しでもハマるとADHDの特性で過集中を発揮するため、そこそこできるくらいにはなる。
「有楽町かきだ」の大将に倣って、YouTubeとクックパッドを参考にすしを握れば、そこそこのクオリティーで仕上げられるようになった。
プログラミングを学びPythonを使って、棚卸しのシステム入力を8時間から5分に短縮できるようになった。
人生を歩む上での、余剰スキル。スキルを身につけ成長はしているが、幸せではないし楽しくもない。
最強にして最高に不幸なのだ。
イロドリある人生を歩むのに必要なのはモノではない
休みがあるのが嫌で、この数年は9-21時勤務の週に1回の休みというセルフブラックスタイルで働いている。でも自分ではブラック企業と思っていない。
やらされてやるのか、自らやるのか。この違いは非常に大きい。仕事がライフワークになるまでに悟りをひらいている。
そして、そのレベルに到達して気付いた。仕事でどんなに成功しても幸せにはなれない。ただただスキルアップしても幸せにはなれない。
幸せを感じられるモノは、富とか名声とかスキルではないのだろう。
企業人の人生としては最高だが、一個人の人生としては最低だ。何も変わらない日常がただただ過ぎてゆく。
まさにドミノ倒しの倒れた一コマだ。
今はただ倒れた一コマが、またイロドリある日常の1コマを過ごせるようになるだろうか。
人生のパートナーは今も大切なお守りだ。ありがとうと感謝の日。大切に想う気持ちは変わらない。
冒険家になる日を夢見て、今日もぼくは起きる。
おれはもうねむい。